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zoom RSS 荒川の左岸を歩くパート@ 熊谷から吹上駅へ

<<   作成日時 : 2009/10/14 19:47   >>

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暴れ川、荒川の約400年間でダイナミックに変わってきた歴史を「歩いて」触れることにした。
今回は、荒川の瀬替が行われた熊谷市久下付近の探索と旧中仙道(荒川堤)を歩く

荒川右岸(上熊谷駅〜川越線指扇駅)は、日付が遡るがシリーズ(AからGの偶数)で4回に分け掲載しました。  ご参照ください。 今度は、同じ区間で「荒川左岸」を、シリーズ@から奇数で、順次投稿を予定しています。

                          2009年3月9日(月)
                            コース概略
熊谷駅⇒新熊谷堤⇒旧熊谷堤(万平公園)⇒八丁の一理塚跡⇒旧中仙道⇒元荒川源流付近(荒川の締切)⇒(旧中仙道)⇒旧荒川(元荒川源流の様子)⇒熊久橋⇒(みかりやの跡)⇒熊谷堤碑⇒久下橋記念碑⇒
新久下橋⇒(旧中仙道)⇒久下堤の碑⇒久下一里塚の碑⇒決壊跡の碑⇒荒川パノラマ公園⇒大芦橋⇒吹上駅

                         荒川の西遷以前
荒川の西遷以前は現在の元荒川、流路を南東へ向かって流れ(行田市、吹上町、鴻巣市、川里町、菖蒲町、桶川市、蓮田市、白岡町、岩槻市)を経由して、越谷市中島で中川の右岸へ合流し東京湾へ流れていました

                         荒川の西遷(瀬替え)
荒川の西遷 寛永6年(1629)に熊谷市久下付近で、今まで荒川の本流であった元荒川を締め切りました。
荒川の瀬替えは大宮台地の東側だった荒川の流路を、新しく西側の和田吉野川、市野川、入間川へと繋ぎ変えたので、利根川の東遷に対して荒川の西遷とも呼ばれている。   この工事を指揮したのは関東郡代 伊奈忠治
そして、昭和初期に近代改修されて、大規模な築堤と遊水地(河川敷)の造成に伴い、それまでの蛇行流路を直線化した。   河川敷内には旧荒川と呼ばれている、旧流路跡が現存している。

旧流路跡は鴻巣市から桶川市にかけて顕著。旧荒川は荒川の瀬替えの名残の流路といえます。また下流域では荒川放水路開削に伴い綾瀬川、中川が分断され飛び地が出来ました。

                     荒川の付替後(1629)の大改修は
         荒川上流部改修(直線化)1918(大正7年から昭和29年まで36年間実施) 
         荒川放水路の開削 通水 1924(大正13年から昭和5年完成)

                今回の企画は 下記 HP参考にしました。
関東地方の川  アドレス http://www.geocities.jp/fukadasoft/rivers/index.html 
関東地方の川のHPを元にコース設定をし、記事や写真構図まで、参考にしてウォーキングして作成したものです
荒川上流河川事務所 荒川を知ろう、荒川を遊ぼう、から  アドレス http://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/index.htm

     *****熊谷駅⇒新熊谷堤⇒万平公園(熊谷堤碑・熊谷桜碑)⇒八丁の一理塚跡⇒旧中仙道⇒
                    元荒川源流付近 (県水産試験場・大雷神社・元荒川管理起点)*****

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                        写真@熊谷堤(新堤 近代改修で築堤)
現在の熊谷桜堤は新堤(近代改修で築堤)に昭和27年(1952)から植樹を始めて、桜で有名な熊谷を復活させたもの。
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                      写真A熊谷堤(新堤) 2006/4/8 さくら祭り 撮影
    
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                    写真B名勝熊谷堤碑(大正三年建立)旧熊谷堤
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                          写真C名勝熊谷堤碑
            BC万平公園  旧熊谷堤の跡地を公園として整備、約150mに渡って旧堤防が残る。
 旧熊谷堤の高さは約3m、天端の幅は約4m。旧堤防は規模が大きい。万平公園の東端、名勝熊谷堤碑がある、

写真の構図は荒川の旧堤外地(現在の熊谷駅南口の一帯)から旧熊谷堤(左岸堤防)を眺めたもの。旧堤外地は戦前までは一面に桑畑が広がっていた。旧熊谷堤は天正年間(1580年頃)に鉢形城主、北条氏邦によって築堤された。その後、増築や嵩上げがなされ、昭和20年代に荒川の近代改修が完了するまで堤防として機能していた。旧熊谷堤は、石原2丁目付近から始まり、石上寺(星渓園)の脇を通り、久下付近まで続く、延長約4Kmの堤防だった。   現在の市道:元荒川通の路線が、ほぼ熊谷堤に相当。
                        折角なのでチョッと廻り道をする
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                             写真D八丁の一里塚跡
日本橋から十五番目の一里塚。久下新田の一里塚から、ここまで一里ある。いま英泉描くところの「八丁堤の景」という、浮世絵があって、当時の風景や風俗を偲ぶことができる。
                             
                         現在の元荒川の源流域
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                        写真E大雷神社 熊谷市佐谷田
大雷神社の鳥居の脇には大字 基標と刻まれた古い様式の水準点がある。かつては大雷神社の敷地内に湧水があり、源流の一つだが、現在の水源は完全に枯渇している。熊谷市佐谷田と久下の境界に位置する。
この付近は元荒川の源流部であり、かつては大雷神社の境内の湧水が、元荒川の水源だったが、涸れてしまったので、現在は農林総合研究センターのポンプで地下水を汲み上げて水源としている。
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         写真E元荒川の源流 埼玉県農林総合研究センター 荒川右岸堤から撮影
センターは、荒川の左岸堤防に隣接して建つ。敷地内にある水槽では、淡水魚の原種の保存をおこなっている。
数年前までは、元荒川の源流は荒川の湧水(複数箇所)だったが、すっかり枯渇してしまったので、現在はここから地下水を、ポンプで汲み上げて元荒川へ送水している。この付近は荒川が形成した扇状地の扇端部であり、かつてはあちこちで湧水が見られたという。
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              写真F元荒川の源流 研究センターの東側付近 源流から100m下流の地点
川幅は1.5mくらいで、流路は適度に蛇行している。この付近は明るく美しい流れである。
あちこちにムサシトミヨ(トゲウオ科の魚、天然記念物)の説明板や立て札が建てられている。ムサシトミヨは
絶滅危惧種、世界で熊谷市にしか棲息していない(とされている)。まさに元荒川を象徴する魚であり、
佐谷田地区にはその名を冠したムサシトミヨ西橋と東橋という橋まで架けられている。

       *****(旧中仙道)⇒旧荒川(元荒川源流の様子⇒熊久橋)⇒旧中仙道⇒(みかりやの跡)*****

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                     写真@熊久橋(ゆうきゅう)の付近
写真の手前(熊久橋)から流れてくる細流が合流。細流に架かる熊久橋は旧中山道の橋である。細流の上流(水源)には養魚場が数多く分布しているが、それらは荒川の旧流路跡だという。旧街道と雑木林、そして
元荒川によって形成された懐かしい景観が今も残っている。
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               写真A八丁堤景 (英泉)茶店の御狩屋(みかりや)
いま英泉描くところの「八丁堤の景」という、浮世絵があって、当時の風景や風俗を偲ぶことができる。
熊谷宿八丁堤景 熊久橋付近から「佐谷田八丁」になります。久下直光との領地争いに負けた熊谷直実が、
熊久橋から八丁(約900m)下がった所との言い伝えがある。一里塚跡から約4km

        *****旧久下橋・完成した記念碑(思いやり碑)・現在の久下橋・熊谷堤碑と権八地蔵*****

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                  写真@熊谷堤碑と権八地蔵 (熊谷市久下)
久下橋のたもとに残る重要な碑・久下橋の左岸橋詰にある久下権八公園には、熊谷堤碑(明治12年建立の碑を再建、題字は伊東博文)が建てられている。久下〜石原間の堤防を63,600尺(約19Km)も修復したとあるが、この間の直線距離は約7Kmしかない。奥に見えるのが権八地蔵。権八地蔵は吹上町荊原の旧中山道(荒川の左岸堤防裾)にもあり、行田市、鴻巣市にもあるという
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         写真A旧久下橋・完成した記念碑(思いやり碑)碑は左岸堤防(北側)に建立。
碑には「久下の渡し冠水橋跡」と刻まれ、題字は、上田清司 埼玉県知事。碑の隣ベンチは、久下橋の主桁に使われていた木材で久下橋の形見です。ここには江戸時代から久下の渡しがあり、昭和三十年には久下橋が架けられ、人々の交通の便がはかられてきた。久下橋は冠水橋で細く長く、橋上では自動車がすれ違えないため、対岸の様子を見て渡るところから「思いやり橋」とも呼ばれた。ムカデのような橋脚とともに親しまれてきた橋も、平成十五年新しい橋の完成とともに、惜しまれつつ撤去された。「久下の渡し」「冠水橋」の歴史と「思いやりの心」を後世に伝えるため1500余名の善意をもって、ここに記念碑を建立した.下流には新久下橋が見える.
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                                写真B久下橋周辺略図
             この付近でいわゆる荒川の瀬替え(流路変更)がおこなわれた。
寛永6年(1629)に荒川は熊谷市久下付近で締め切られ、新たに開削された、水路(延長は推定約4Km)によって、和田吉野川へと繋ぎ変えられた。これによって新しい荒川は和田吉野川、市野川、入間川の流路を辿り、大宮台地の東側から西側へと移されたので、荒川の瀬替えは、利根川の東遷に対して荒川の西遷と称されることもある
 荒川の旧流路である元荒川は、荒川の北側200〜300mの住宅地の中を流れている。元荒川の現在の起点は、久下橋から1Km上流の熊谷市佐谷田である。荒川に久下橋が架かるまでは、両岸の往来は久下の渡し(金兵衛の渡し)注と呼ばれる渡船に頼っていた。渡船場は古くは河岸場(久下河岸)も兼ねていた。左岸側に、旧久下橋から北へ500mに、帰帆(きはん)という河岸場を連想させる古風な地名が残っている。
               略図・記事  荒川上流河川事務所 荒川を知ろう、荒川を遊ぼう、から  
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                         写真C旧久下橋はこんな橋だった!!
         旧久下橋(冠水橋)2003年11月 新久下橋開通に伴い撤去された。写真は関東地方の川から
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                    D写真左岸 新久下橋 下流から
         
       *****新久下橋⇒(旧中仙道)⇒久下堤の碑⇒久下一里塚の碑⇒決壊跡の碑
                      河川敷に残る墓地⇒荒川パノラマ公園⇒大芦橋⇒吹上駅*****

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                             写真@久下堤の碑附近
この付近の左岸堤防は、荒川の瀬替え時に旧荒川(元荒川)を締め切る堤防として築かれた。江戸時代初頭から存在する堤防で、現在でも往時の呼称である久下の長土手(久下堤)と呼ばれる。長土手に沿って旧中山道が通っている(写真左端の道路、ここから下流は荒川の堤防上を通り、吹上町荊原まで続く)。左岸堤防の裾には明治45年(1912)に建立された、[久下堤の碑]がある。碑文には約4Kmにわたり、久下堤を修復したと記されている。明治43年の大洪水で堤防が決壊寸前となったためだ。
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                          写真A輪型の坂 標示
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                          写真B輪型の坂 標示
江戸へ向かう旅人が、久下村を過ぎて、長土手へ登る坂が、通称「輪型の坂」だ。上がって下れば江川河岸へと通じる。今は舗装されていて轍(わだち)のあと一つないが、河岸が栄えていた頃には、大八車の跡がいっぱいあったろう。それで、誰言うとなく「輪型の坂」というようになったと伝う。ちなみに、江戸時代頃のこの辺の土手からは、荒川を行く帆掛け船が見えたそうである。明治になって、上野−熊谷間に鉄道が開通し、水運は衰退していきます。
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                 写真C久下一里塚跡碑(日本橋から十四番目の一里塚)
江戸の日本橋を起点する中山道は、板橋・志村を経て戸田の渡しから埼玉県へ入る。慶長9年(1604)幕府は、大久長安に命じて、この街道に一里塚を築かせた。一里塚は道の両側に方五間(9m四方)の塚を築き、その上に榎や欅を植えたもので、街道に風情を添え、旅人には里程の目印になったり憩いの場所にもなった。柳樽には、
“くたびれた奴が見つける一里塚 という句もある。
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                     写真D決壊の跡の碑 熊谷市久下
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                      写真E決壊の跡の近くに、近代的なマンション
DE現在スーパー堤防工事を行っており[決壊の跡]の碑も同様に改修中である。写真はこの付近の旧中山道、
この付近は熊谷市、行田市、吹上町の境界だ。昭和22年(1947)のカスリーン台風による洪水で、荒川の左岸堤防はこの地点で決壊した。石碑の碑文には2箇所が決壊し延長は約100mに及んだとある。決壊による濁流は元荒川(荒川の旧流路)に沿って流れたという。利根川の右岸堤防も大利根町(新川堤)で決壊した。そのため、埼玉県では荒川よりも東側の地域は、大宮台地を除き、ほぼ全域が冠水した。
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                       写真F川敷に残る墓地 熊谷市新川
河川敷には、荒川の瀬替えによって、新たに新川が開削され、村の中央に新川が流れるようになったために、村は上分と下分に分断された。そして昭和初期の荒川の近代改修によって、ついに廃村に追い込まれた。
改修によって消滅した旧・新川村(しんかわ)の跡が残る。墓地は放置されているわけではなく、今もご先祖の供養に訪れる人が多い。対岸(右岸)は大里町津田新田。この付近には昭和初期まで、上分の渡しがあった
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                写真G上流部の元荒川(久下/荊原/北新宿の境界域)
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                写真H上流部の元荒川(久下/荊原/北新宿の境界域)
                     GH荒川と元荒川の近くて遠い関係
かっての荒川は、現在の元荒川筋を流れ・瀬替えした熊谷市久下附近の荒川堤防から、土手の直ぐ隣に、かっての荒川本流である元荒川の流れが見えます。川幅5bくらいの小さな川で、荒川堤防との距離わずか程度のところも、本流と切り離されてからも、ずっと直ぐ横を流れた来たのです。この地点から急カーブし離れて行きます。また
郡との境界は:元荒川は起点付近を除けば、備前堤までの区間は左岸側が旧埼玉郡、右岸側が旧足立郡である

    今日の探索は此処で終了です。帰りは、下流の方向へ荒川左岸を歩き
                           荒川パノラマ公園・大芦橋までを見て、吹上駅へ。

                  参考までに、この下流も歩いています
 関連 荒川の左岸を歩くパートB吹上駅から鴻巣駅へ http://68535631.at.webry.info/200911/article_4.html
     荒川の右岸を歩くパートA上熊谷から吹上へ  http://68535631.at.webry.info/200910/article_4.html

  




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