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zoom RSS 荒川を歩く歴史シリーズ 秋ケ瀬取水堰と新河岸川・引又宿を歩く

<<   作成日時 : 2009/11/19 19:00   >>

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荒川の歴史探索シリーズ番外編 今回は、秋ケ瀬取水堰と江戸時代、新河岸川の舟運で繁盛した
志木の街並(引又街道・引又宿)を探索ウォーク!!
                      2009年11月16日(月曜日)
                          コース概略
西浦和駅⇒秋ヶ瀬橋⇒荒川右岸 橋詰⇒秋ヶ瀬堰 取水口 ⇒秋ヶ瀬連絡橋⇒宗岡樋管⇒
     水資源機構事務所⇒新宮戸橋(朝霞水路沈砂池)⇒新河岸川(宮戸橋〜富士下橋)〜いろは橋⇒
                         伝統的建造物旧村山快哉堂⇒栄橋⇒引又街道⇒東上線志木駅
               
                  今回の企画・記事は 下記 HP参考にしました。
       関東地方の川  アドレス http://www.geocities.jp/fukadasoft/rivers/index.html

     *****西浦和駅⇒秋ヶ瀬橋⇒荒川右岸 橋詰〜河川敷へ〜秋ヶ瀬堰・取水口〜宗岡樋管⇒*****
                    写真@ADEFはクリックしてみてください
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          写真@秋ヶ瀬橋から見る秋ケ瀬取水堰・その上流に羽根倉橋が微かに見える(ズーム撮影)
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                        写真A秋ヶ瀬橋から見る秋ケ瀬取水堰
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                          写真B秋ヶ瀬橋 右岸下流から
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             ・・・・・写真C秋ヶ瀬取水堰の全景   関東地方の川 HPから借用・・・・・
形式:可動堰、長さ127m、調節ゲート1門(幅10m,高さ6m)、洪水吐ゲート3門(幅34m、高さ6m)、魚道1箇所
右が秋ヶ瀬取水堰、左の白い建物が宗岡取水口。宗岡取水口は、ローラーゲート6門(幅6m、高さ3.7m)
東京都の用水は、宗岡取水口から取水される。埼玉県の用水は、左岸の樋門から取水され大久保浄水場へ
送られる。取水堰から左へ延びるのは、長さ500mの管理橋。河川敷に広がる緑は、水田で、取水堰から下流は
荒川の河川敷は公共施設の利用が多くなって、農地は少なくなる。
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                       写真D秋ヶ瀬取水堰  右岸の下流から
  荒川は秋ヶ瀬取水堰の付近まで、東京湾の潮の影響を受けている。(堰下流は観潮河川となる)
  荒川には、この堰から下流に堰や水門はないから、秋ヶ瀬取水堰は防潮水門の役割も果たしている
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                         写真E宗岡取水口と秋ヶ瀬取水堰
          左端が宗岡取水口、右隣が秋ヶ瀬取水堰 写真手前方向に宗岡樋管がある。
東京都の水は、この取水口から取り込まれて朝霞浄水場に送られる。この地中(道路下)に朝霞水路がある
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                            写真F宗岡取水口と管理橋
    取水堰から堤防までは長い橋がある。長さ500mの管理橋!!管理橋の大きさに圧倒される。
    堤防内に水が氾濫しても堰までは管理の為に歩いて行けるようにするため?
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                               写真G宗岡樋管
 宗岡樋管は朝霞水路につながっていて、東京都の都市用水と新河岸川・隅田川の浄化用水が運ばれている。
 宗岡樋管の奥には、500m下流にある秋ヶ瀬橋(赤い橋)が、かすかに見える。
                        +++++朝霞水路+++++
取水口から取水した用水を東京都の朝霞浄水場及び三園浄水場へ運ぶ水路。用水は途中、導水暗渠、沈砂池、
接合井等の導水施設を通ります。 その主な役割は、(1) 東京都の都市用水の供給  (2) 隅田川の浄化 です。

    *****新宮戸橋(朝霞水路沈砂池)⇒新河岸川の左岸を歩く(宮戸橋〜富士下橋)⇒
              いろは親水公園⇒いろは樋の跡(いろは橋 左岸橋詰・中宗岡側)⇒いろは橋*****
                              新河岸川
 新河岸川は大正11年(1922)に改修工事が始まるまでは、秋ヶ瀬取水堰の2km下流、荒川に合流していた。
 新河岸川の左岸には旧堤防の跡が今も残っている。昔は荒川と新河岸川の水害に悩まされた地区である
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                       写真@朝霞水路沈砂池 (新河岸川左岸側)
 秋ヶ瀬取水堰から南西1.5Kmの新河岸川左岸に位置。東京都の用水はこの施設から、新河岸川の下を潜って
 更に500m下流の朝霞浄水場へ送られる。           写真は水資源機構パンフレットから
     *沈砂池は見過ごしてしまった。実際は新河岸川上流の宮古橋から左岸を歩くことになる
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                         写真A富士下橋 左岸下流から
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                        写真B富士下橋から志木市役所を見る
    写真左上から柳瀬川が新河岸川に合流している。合流地点の建物は志木市役所。
 市役所の左側に栄橋、右側に、いろは橋。橋の袂には、いろは樋の大桝(野火止用水の水路橋)跡がある。
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                        写真Cいろは親水公園 いろはのこみち
    中宗岡五丁目から下宗岡一丁目にかけての新河岸川の左岸河川敷には多くの樹木が茂り、
    遊歩道も整備されている。志木市は日本で最初に、自然再生条令を公布した自治体である。

                         ・・・・・いろは樋の跡・・・・・
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                             写真Dいろは樋の大桝
 いろは樋の大桝、煉瓦製の吐水槽で、外径は2.6mの正方形。内径は1.5mの正方形で、深さ5.3m、
 現在は、地面からは0.9m突出している。呑・吐口の水位差は2.8mあり、木製の水槽では強度が不足したそうだ。
 水槽天端の笠石には竣工年が刻まれている(1903年)
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                           写真E伏せ越しに使われた鋼管
   煉瓦製の水槽。鋼管は長さ4m、外径は大きい方が54cm、小さい方が29cm。いろは樋には、効率よく
   送水するために、空気抜きの管を設けたり、送水管の口径を変化させる等の工夫がなされていた。

                            いろは樋の起源
いろは樋は、万治二年(1662)に新河岸川に架けられた野火止用水の水路橋(長さ260mの木製の樋)です。
新河岸川の左岸と荒川の右岸に挟まれた宗岡地区は、度重なる水害と、恒常的な農業用水の不足に悩まされていた。それまで新河岸川に放流されていた野火止用水の流末(余水)を、新河岸川を越えて、宗岡地区に送水するために設けられた構造物です。野火止用水は伊豆殿堀とも称され、これは開削者の松平伊豆守信綱(川越城主)に由来します。その後、樋には補修や改修が行なわれ、1898〜1903年には鉄製のパイプで新河岸川の下を潜る
方式(伏越)に変更された。この改修では呑口と吐口は煉瓦造りの強固な水槽が設置された。
これが「いろは樋の大桝」です。農業用水路として使われてきた野火止用水であるが、新座市から志木市の区間は暗渠に改修され、下水路になってしまった。そして、1965年、いろは樋はその役割を終えた。
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                    写真F江戸時代の石橋「いろは橋の親柱」と供養塔 
平成9年に竣工した、いろは橋下の河川敷に昔の奥州街道が通っていたが、袋状に川に囲まれた湿地帯であったために、僅かの降雨にも往来をたたれいた。安永4年(1775)に長さ8b、幅員3bの石橋が完成させた。この石橋は、いろは樋に因んで「いろは橋」と命名され、更に端の傍には人々の安全な通行を願って石橋供養塔が建立された。石橋は新河岸川の河川改修(昭和6年完成)によって撤去されたが、今回の架設工事によって「いろは橋」と刻まれた欄干の前後につく2本の親柱が発見され、その当時の石橋の存在が明らかになった。  志木市教育委員会

                  新河岸川〜引又街道〜東上線志木駅
   *****いろは橋⇒いろは親水公園(旧村山快哉堂)⇒栄橋⇒市場坂上交差点(ポケット広場)⇒
        いろは樋の大枡⇒引又河岸場跡⇒西川家の中庭の門⇒引又宿・レトロチックな薬局⇒
                                 引又宿の中心部⇒上の水車跡⇒東上線 志木駅*****

                柳瀬川と新河岸川の合流点の三角州には、いろは親水公園
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                                写真@表側
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                                写真A裏側
                @A「伝統的建造物旧村山快哉(かいさい)堂
明治10年(1877)11月に建築された木造2階建て土蔵造りの店蔵で平成7年(1995)に解体後、平成13年(2001)に
いろは親水公園中洲の林(現:村山快哉堂ひろば)に移築復元したもの。店蔵が座売り形式の商形態を残す点、
一階中央部分の吹き抜け、鉢巻の2段構成、ムシコ窓とその枠回りなど川越の店蔵とは異なる特有の意匠構成が  見られ、貴重な有形文化財(建造物)です。                      志木市教育委員会 HPより
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                        写真Bいろは親水公園から下流を見る
       写真左から新河岸川、右から柳瀬川が合流する、さらに奥の下流に富士下橋が見える。
       右側の川岸は引又河岸場跡がある
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                        写真C親水公園から「いろは橋」を見る
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                          写真D栄橋から下流を見る
        写真@と同じように下流方向(合流地点)を見ている、右側の川岸は引又河岸場跡になる

        ・・・・・市場坂上交差点附近 (ポケット広場 いろは樋の大枡 引又河岸場跡 等)・・・・・
江戸時代、運河や河岸の整備により舟運が隆盛し、府中街道と新河岸川の交点となった志木市市場坂上付近
(引又河岸)は商品流通の拠点として栄え、交通の要衝となった。近代になって、志木の商人らが当初川越街道に   並行して敷設予定であった東武東上線を誘致して、その開業と同時に志木駅を開設 
                                               百科事典 ウィキペディアから
                いろは樋の原理を紹介するポケット公園 「市場坂上交差点」
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                             写真Eポケット公園(全体)
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                               写真F登り竜
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                               写真G大枡
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                               写真H小枡
「市場坂上交差点」に、いろは樋の原理を紹介するポケット公園があり、ミニチュア模型や大枡、小枡の現物大模型が設置されている。寛文2年(1662)新河岸川の上に全長260mの「いろは樋」は、水面から高さ、4,4b、樋の幅と  深さ約42pと巨大な木樋が仮設されました。掛樋は48個の樋を繋ぎ、長さ100間以上あることから「いろは樋」とも
「百間樋」とも呼ばれ、当事の江戸名所図会」にもその姿が描かれています。
展示ケース内のジオラマ模型は天保15年(1844)の「いろは樋絵図」に基づいて、周辺の引又河岸の様子なども
含めて「いろは樋」の全長を縮尺75分の1で再現したものです。                 ポケット公園解説より
いろは樋の原理は、用水の水を小枡にため、その水を地形の落差をいかして大枡に注ぎ、その水圧で木樋に水を通し、対岸に送るというもので、コーヒーサイフォンである

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                             写真Iいろは樋の大桝
いろは樋とは、野火止用水(伊豆殿掘)を引又(現志木市本町)から宗岡に引く為に考案された筧である。徳川家光の時代、宗岡が灌漑用水に乏しいため、新河岸川に落ちていた用水を、川の上に木樋を架け、宗岡に引く案を立て
川越城主松平伊豆守信綱の許を得、実現した。大桝は堀の水を湛え、その落下する勢いを持って、水を高き揚げる 仕組みであった。明治31年木樋を鉄管に変え、大桝も煉瓦積みとし、鉄管は川底に理設した。
昭和41年志木市 市場地内の野火止用水(伊豆殿掘)は下水路となり、「いろは樋」はその機能を失った。
この大桝は長期にわたって郷土に恩恵を及ぼした貴重な文化財である。   昭和53年4月 志木市教育委員会

                  引又河岸場跡   新河岸川・柳瀬川の合流地点右岸
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                             写真J引又河岸場跡碑
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                         写真K引又河岸場跡から見る新河岸川
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                       写真L西川家の中庭の門「市場坂上交差点」
酒造業や水車業を営んだ西川家の中庭にあった潜り門が移築されている。幕末の押し迫った慶応2年(1866)に 建築されたもので、門柱に同じ年に発生した武州一揆(第二次長州征伐に伴う米価の高騰に憤った民衆が蜂起した事件の際の生々しい刀の傷跡が残されている。西川家は、江戸時代初期に、この地に來住し幕末には酒造業、   水車業、肥料商を営む傍ら引又町組頭役を勤めた名家、今でも西川本家の通称で呼ばれています。
                                               平成13年   志木市教育委員会
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                              写真Mレトロチックな薬局
     明治20年代に創業された朝日屋原薬局は、母家、土蔵、物置など7つの建物が国登録有形文化財。
     母家は明治45年に建築、看板は大正時代のもの。旧引又宿には情緒ある民家が点在している。
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                          写真N引又宿 本町1・2丁目付近
江戸時代の寛文年間(1661〜73)頃から、六歳市(3・8のつく日に市が立つ)が開かれたという。
この宿場は、河岸場を併設していたので、物資の流通拠点として隆盛し、街道の両脇には米屋、肥料屋、呉服物が立ち並び、発展した。
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                  写真O上の水車跡  本町3丁目交差点にある上の水車跡
引又宿(現本町1、2丁目付近)には、かって「上の水車」・「中の水車」・「下の水車」(河岸の水車)と呼ばれる3つの水車がありました。上の水車が開設されたのは、安永5年(1776)といわれ、引又宿の中では一番新しい水車でした。この水車の杵数は天明8年(1788)当事10本で、玉川上水筋に設置された水車としては標準的であった。
江戸時代には、玄米を白米に精製するために使用し、引又宿内にあった多数の宿屋、飲食店、酒造業者などで
使用されていました。                           平成7年10月      志木市教育委員会

               今日の探索は終了 3丁目交差点から志木駅まで約1キロ
      万歩計は 通常歩行 23845 しっかり歩行 5742 消費i 637`i 歩行距離 16`
                                                    





 









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